はじめまして、はっぴーです。
私のプロフィールを見ていただき
ありがとうございます。
私は会社員をしながら
副業でビジネスを始めました。
共働きの4人家族で
やんちゃ盛りな4歳の息子と
0歳の娘を保育園に預けて働く
ごくごく普通のワーママです。
そんな私がビジネスを始めてからは、
6カ月で副業月収35万円。
10ヶ月で副業月収64万円を達成!
今では平均して
月に50万円くらいの副業収入が
コンスタントに入ってくるように
なりました。
会社員と子育てしながらビジネス
なんて聞くと
さぞかし忙しそうなイメージを
持たれるかもしれません。
でも私の場合、
半分くらいは自動化されています。
だから
《がむしゃらに働いて副収入を得ている》
というわけではないんですよね。
最近の日常としては…
ビジネス仲間とランチしたり、
リッツ・カールトンに
ロングステイしてみたり、
天気のいい休日は
家族で思いっきりお出かけしたり
テラスハウスさながらのヴィラで
ビジネス合宿に参加したり、
海外旅行に行ってみたり、
こんな感じで家族や友人、
かけがえのない仲間と共に
ワクワクでいっぱいの毎日を
過ごしています。
今は副業という形ですが、
ゆくゆくは会社を辞めて
好きな時だけ働くという選択肢も
ありかなと思っています^ ^
《会社の給料以外に収入がある》
これが私の中では
1番の変化でして・・・
収入の柱が増えたことで、
「会社を辞めたいと思ったら
いつでも辞められるんだ!」
「このまま定年まで
働かなくてもいいんだ!」
って思えたら
気持ちもすごく楽になったんですよね。
だから今までみたいに、
上司の顔色ばかり伺いながら
仕事することもなくなったし
生活費を稼ぐためだけに
残業することもなくなりました。
その他にも、
趣味のダンスやホットヨガに没頭したり
自分の時間も大切に
できるようになったりと
ストレスのない楽しい毎日を
過ごしています。
…うさん臭いかもしれませんが
もう少しお付き合いくださいw
私もほんの少し前までは
こんなふうになれるとは思っていませんでしたし、
こういうブログやSNSの発信を
めちゃくちゃ怪しんでいました。
そんな私が、
今に至るまでにはどんな経緯が
あったのかまとめてみました。
ぜひ読んでみてください。
(ここからはあえてですます調を
辞めて書いていきます。)
幼少期〜受験に失敗。人生最初の挫折
私はセミの鳴き声がミンミンと響く
暑い日に生まれた。
厳しい父と
それを陰で支える家庭的で教育熱心な母
人懐っこい3つ下の妹の
4人家族の長女として
厳しくもあたたかい家庭で育った。
父親は毎日仕事で忙しく
帰りが遅かった。
だから私は朝から晩まで
ずーっと母と一緒で
毎日公園に行ったり
お散歩したり
お絵描きしたり
絵本を読んでもらったり
いつもにこにこして
私が笑うと笑い返してくれる
母が大好きだった。
とにかく教育に重きを置いた
家庭だったので、
私はちいさい頃から
「受験」という競争にさらされていた。
人生初の挫折に直面したのは
3歳の時だった。
普段は着たこともないような
真新しいお洋服を着て、
母と一緒に手をつないで
幼稚園の受験会場へと向かった。
母:「じぶんのおなまえはおおきな声で
はっきりと言うんだよ。」
私:「はい…」
受験問題は知恵の輪のようなものを
外すというものだった。
時間内に知恵の話を外すよう
面接官から指示されたが、
極度の緊張で外し方が分からずに
私はその場で固まってしまった。
結局自分の名前すら言えずに
初めての受験は終わった。
もちろん
結果は不合格。
受験会場からの帰り道
ピクリとも笑わない母を見て
3歳にして、
「自分は選ばれなかった」
ということだけは理解できた。
本当は母の喜ぶ顔が見たかった。
いつもあんなに笑ってくれていたのに…
私は母を笑顔にさせることは
できなかったんだ…
他の幼稚園もいくつか受験したが、
結果はすべて不合格。
親の描いていたエスカレーター式の
私立の幼稚園には入れず、
幼稚園、小学校と公立の学校に
通うことになった。
小学生〜常に周りと比べられてつらかった
小学3年生になると
母がしきりに「中学受験」という言葉を
口にするようになった。
母はいつも、
「たくさん勉強していい大学に入って
自立した女性になりなさい。」
と言っていた。
私は母の喜ぶ顔が見たくて
必死で勉強した。
友達が一輪車で遊んでいる時も
妹が家で楽しそうにテレビを見ている時も
自分のやりたいことは全部捨てて
行きたい中学のことだけを考えて
毎日毎日机に向かい
本気で勉強した。
でも成績は一向に上がっていかない。
それどころか自分よりも遅く
塾に行き出した友達に
どんどん抜かされていった。
小学6年生になり
受験が近づいてくると、
母はどうにかして私の成績をあげようと
友達の親から受験に関する情報を集めては
私にアドバイスするようになった。
同じクラスのAちゃんが習っている
家庭教師がいいんじゃないかとか
同じ塾に通うB君の勉強法を聞いて
真似たらいいんじゃないかとか。
Aちゃんはすごい努力家
B君はかしこい子
こんな言葉を何度も聞いているうちに
少しずつ
少しずつ
無意識のうちに
自分はダメな子なんだと
母に遠回しに言われているような気がして。
そのたびに私は
勉強ができない価値のない人間なんだ
と自信をなくしていった。
結局、自分の行きたかった
第一希望の学校には行けず、
中学受験は失敗に終わった。
私はまたしても
母を悲しませてしまった。
「お母さんこめんね…」
学校の先生
塾の先生
父、母、祖父母
友達や友達のお母さん
こんなにたくさんの人に
応援されながら
支えられながら
全力で受験と向き合って
必死で勉強してきたのに…
私はみんなの期待を裏切ってしまった。
受験に失敗して悔しかったというよりかは
母や先生に対して申し訳ない
という感情の方が強かった。
やっぱり私はダメな子なんだ…
こんな自分が大嫌いだった。
3度目の受験失敗
高校3年生になると
大学受験を意識するようになった。
今度こそという思いで
いくつか大学を受験したが、
結果はすべて不合格。
受けた大学は、
滑り止めも含めて全滅だった。
うそ…
私はまたダメだったんだ…
不合格通知を目にした時の
落胆した母の表情は
忘れられなかった。
唯一滑り止めの滑り止めで
受けた大学から2次募集という形で
やっと合格をもらえた。
「私は滑り止めの滑り止めか…」
受験に失敗するたびに
自分が『出来損ない』というレッテルを
貼られたような気がした。
そのたびに
「自分はなんて価値のない人間なんだ」
「自分は誰からも必要とされていないんじゃないか」
と思うようになっていった。
大学生〜NYへダンス留学。夢を諦めた先には。
大学に入ってからは、
特にやりたいこともなく、
適当に課題をこなして単位をもらう
学生生活を送っていた。
そこで私に転機が訪れた。
友人に誘われて何気なく行った
渋谷のクラブ。
ぼーっと生きてきた私にとって、
今まで感じたことのない空気感に
ワクワクが止まらなかった。
そこでダンスのステージを見た。
衝撃的だった。
スポットライトを浴びて
キラキラと輝きながら
踊るダンサーを見て
一瞬で
私もこうなりたいと思った。
ショータイムが終わった後、
恐る恐るそのダンサーに話しかけにいった。
「あの…ダンス、すごくカッコ良かったです!なんか感動したっていうか、私もやってみたいです!どうやったら出来るようになりますか?」
この頃から、
「人に感動を与えたい」
「自分を表現できるようになりたい」
このダンサーみたいに、
私がきっかけで
「人の人生を変えられる人になりたい」
と思うようになった。
ダンスを基礎から学び、
大学3年の頃にはダンスのお仕事を
いただくまでになっていた。
この頃の私には夢があった。
どうしてもNYで本格的な
レッスンを受けてみたい!
と思うようになった。
世界を見たかった私は
死に物狂いでバイトした。
バイト→ダンス→バイト→ダンス
大学の授業なんてそっちのけで
何かに取り憑かれたようにダンスに
明け暮れていった。
そして3年間
必死で貯めたお金を握りしめ、
2カ月間、NY へ飛び立った。
NYでは、海外アーティストの
バックダンサーやミュージカル俳優を
目指すプロのダンサーたちと共に
大好きなダンスに没頭していった。
今まで生きてきた人生の中で
一番刺激的で楽しくて
ずっと大好きなダンスをしたい!
そう思ってた。
そんな時、
就職活動のタイミングがやってきた。
ダンスのことで頭がいっぱいだった私は、
就職なんてこれっぽっちも考えていなかった。
でも周りを見渡すと
みんな就職活動を始めていた。
今まで一緒に踊っていた友人ですら、
気づけば真新しいリクルートスーツに
身を包み私は完全に出遅れていた。
私はダンスがしたい!
でもやっぱり個人が
ダンスで食べていくには無理なのか…?
そんな時、
母からずっと言われてきた言葉を思い出した。
「自立した女性になりなさい」
勉強もダメ
希望の大学への進学もダメだった私にとって
母を喜ばせるためには
いい企業に就職するしかなかった。
期待に応えたい。
もう周りの人たちの期待を
裏切りたくない。
その日から私は本腰入れて
就職活動を開始した。
就活を始めてからは、
履歴書に大学の名前を書くことが
嫌で嫌で仕方がなかった。
同じ企業を志望する就活生を見回しても、
東大、京大、早稲田、慶応、上智と
みんなエリートばかり。
自分が地方の無名大学出身なのが
恥ずかしてたまらなかった。
そんな中、奇跡的に大手企業から
内定をもらえた。
内定の連絡をもらえた時は
嬉しさのあまり大声で歓喜した。
「うそ…ほんとに?
やったぁああああああー」
興奮が冷めやまぬまま
真っ先に母にも報告した。
すると普段は滅多に褒めない母が
満面の笑みで
「よく頑張ったね。」と言ってくれた。
今まで何をやってもダメで
母からの期待に応えられなかった私が
はじめて母から褒められた瞬間だった。
ようやく母の喜ぶ顔が見れた。
はじめて自分という存在が
価値のある存在だと認められた気がして。
ここにきてやっと自分に
自信が持てるようになった。
新入社員 〜年収2000万、トップセールスマンへの憧れ〜
入社してからは希望通り
営業の部署に配属された。
営業職という一見ハードな業種を
自ら率先して選んだのには理由があった。
それは、学歴が一流じゃなくても
営業の世界で結果を出すことができれば
会社から優秀な営業マンとして
評価してもらえると思ったから。
だから何としても
ここで結果を出したい
今度こそ周りの期待に応えたいという
気持ちでいっぱいだった。
私が最初に配属されたのは、
全国に1500ヶ所ある営業部の中で
上位5位の業績を誇る部署だっだ。
無事に入社式を終えて
配属された営業部に
はじめて行った時のこと。
営業部の扉を恐る恐る開けた瞬間に
まず目に飛び込んできたのは
壁一面に貼られたカラフルな掲示物だった。
社員1人1人の営業成績を掲示した
棒グラフや数々の表彰状が貼ってある。
中には棒グラフが天井まで伸びて
折り返している優秀な営業マンもいて、
うわぁ〜すごい!
私も頑張ればこうなれるのかな?
私もこうなりたい!!
私は期待に胸を膨らませていた。
先輩たちはみんな品があってオーラが半端ない。
オーダーメイドらしきスーツに身をまとい、
袖からチラリと見える時計は
どれも高級そうだった。
(やっぱり一流の営業マンってすごい!!
かっこいいなぁ〜)
入社初日にして
この部署に配属されたことを誇りに思った。
私が配属されたのは
給与体系が成果報酬型の
営業部だった。
だから頑張れば頑張った分だけ
給料に反映される。
この部署の中には
年収2000万以上の人が
ゴロゴロいると聞いた。
そんな人雲の上にいる人たちと
同じ環境で仕事が出来るのかと思うと
ワクワクで胸がいっぱいだった。
頑張った分だけ給料は増えていくし、
お客さんからも感謝される。
自分が頑張った分だけ
会社からも認めてもらえる。
だから営業という仕事が楽しくて
私はどんどん仕事にのめり込んでいった。
年収1100万円 〜学歴コンプからの最年少で女性管理職に〜
25歳で管理職に任命された。
チームの数字を引っ張っていく
リーダーとして、
会社から求められていることは
率先して取り組んでいった。
年収は740万、880万、900万と上がっていき、
ついに29歳の時に
年収は1100万円になった。
お給料が増えたことも嬉しかったが
それ以上に
【自分を必要としてくれている】
ということが嬉しかった。
お客さんからは、
「いつも良くしてくれてありがとう」
と感謝されたり
上司からは、
「今月も絶好調だね!」と褒められたり
同僚からは、
「営業話法をマジでレクチャーして欲しい」
と頼まれるようになったり
部下からは、
「はっぴーさんみたいになりたいです!」
と言われたり。
お客さんから
会社から
上司から
同僚から
部下から
いろんな人から必要とされている。
勉強のできない
ただの落ちこぼれだった私が
こうやって誰かの役に立てている。
それが嬉しくて嬉しくて…
もっと誰かの役に立ちたい
もっと自分を必要としてもらえる人になりたい
もっと期待に応えたい
そう思って
寝る間を惜しんで働いた。
いいお給料をもらうことで
『自分が認められた』気がした。
会社が求めていることを
素直に聞いて実践していけば、
もっと昇格できるし
もっと自分に自信を持つことができる。
それに部下の成長を
感じることも嬉しかったし
自分自身が成長できている
という実感もあった。
だから多少ハードな数字を
会社から求められたとしても、
「それだけ期待されているってことなんだ!」
「私がチームを引っ張っていかないと。」
とがむしゃらになって働いた。
もしかしたら年収1100万円と聞くと
キラキラしてそうとか、
経済的に自立していて
羨ましいと思われるかもしれない。
でも実際は
会社からの期待に応えるために
数字に追われ
時間に追われ
プレッシャーに追われる
働き詰めの過酷な毎日だった。
ふと立ち止まって
会社員人生を振り返ってみると
自分の時間が全くないことに気づいた。
朝から晩まで働き
家は寝に帰るだけの場所になった。
仕事終わりに友達とご飯を食べにいく予定を
入れていたとしても、
急な会議や顧客訪問で
ドタキャンばかり続くようになった。
だからいつしか
自分の予定も立てられなくなり
大好きだった趣味のダンスも
諦めるようになっていった。
そのたびに
「私は何のために仕事をしているんだろう?」
と思うようになっていった。
一番悲しかったのは友人の結婚式ですら
出席出来なかったこと。
結婚式の1週間前に突如仕事が入り、
友人に電話を入れた。
「ごめん…結婚式…
仕事で行けなくなっちゃった。」
「えっ…まじで??」
一瞬、電話越しだが
時が止まったかのような重い空気が
流れた。
「本当にごめん!!しかもこんな
急なタイミングで本当にごめん!
必ず埋め合わせするから、
ごめんなさい!」
ショックを隠しきれない様子の
友人にただひたすら謝ることしか出来ずに
電話を切った。
「一生に一度の友人の結婚式ですら
お祝いしてあげられないのか…」
「あぁ…なんでこんなに仕事を優先する
人生しか生きられないんだ…」
自分の働き方に不満を持ちながらも
私はただ黙って働くしか選択肢がなかった。
当時付き合っていた彼とも
仕事が原因で別れることになった。
「このまま仕事ばかりで
まともに恋愛や結婚は出来るんだろうか?」
「こんな生活、いつまで続けなければ
いけないんだろう?」
「このまま身を粉にして働いて
悔いのない人生だったと言えるのだろうか?」
少しずつ自分の働き方に
疑問を持つようになっていった。
馬車馬のように働いた6年間
最初は3人だった部下も
年収が上がるにつれて徐々に増えていき、
いつのまにか11人になっていた。
そして私や部下が
頑張れば頑張るほど、
チームに課される数字も
大きくなっていった。
「また今日もお昼食べれなかったな…」
徐々に時間外勤務や
休日出勤も増え、
自分の時間のほとんどを
仕事に使うようになっていった。
チームのため
営業部のため
会社全体の業績のため・・・
いつしか私は、
会社から課された数字のために
働くようになっていった。
このような働き方をしているのは
私だけではなかった。
時計は21時を回り
上司から振られた仕事を終えて
やっと家に帰れる!と思った時だった。
いつも気遣いが出来て営業成績も
優秀な部下から、
「あの…すいません。
お話があるのですが、
今お時間よろしいでしょうか?」
と言われ、
夜遅くに会社の応接室で
話を聞くことになった。
えーっ!!今から?
やっと帰れると思ったのに…
と思いながらも、
部下は思いつめたような表情を
していたので話を聞いてみると、
「もうこの会社で
やっていけそうにありません。
無理です。辛いです。」
と泣きながら言われた。
そのたびに管理者として
退社を止めなければと思う反面、
内心はこれ以上彼女を引き止めることは
出来ないと思った。
このような退社申し出は
珍しいことではない。
彼女のように、
どんなに優秀で良い給料を
もらっていたとしても、
会社からのプレッシャーや
過酷な勤務体制に耐えられず、
自ら退職の道を選ぶ社員を
私は何人も見てきた。
繁忙期には
毎日のように接待が続いたり、
仕事が終わった後も
上司からは「ねぎらい」という名の
数字をお願いされる飲み会に誘われる。
家に帰る頃には日付が変わってた
なんてこともザラで、
スーツをきたままベッドに倒れ込み
そのまま朝を迎える。
朝起きていつも感じていたのは
「これ、いつまで続けるんだろう?」
という絶望感だった。
それでも、
「私が頑張らなきゃ。
チームのためにも、期待にこたえなないと…」
と必死で自分に言い聞かせてた。
でも本当は悲しくて悔しくて。
もう自分の限界なんて
とっくに超えてるはずなのに。
こんな生活いつまで続くんだろう?って。
不安で押し潰れそうなのに。
ストレスがピークになった頃には
夜になると勝手に涙がこぼれて、
胸がぎゅーっと締め付けられる日が
何日も続いた。
それでも次の日には、
数字を引っ張っていく
頼もしいリーダーとして
何事もなかったような顔して
バリバリ仕事する。
そんな毎日が苦しくて苦しくて
しかたがなかった。
残業80時間がもたらした結末
この頃から食べ物が
喉を通らなくなっていった。
四六時中胃がムカムカし、
キリキリと痛む日が続いた。
体は疲れきっているはずなのに
なぜか眠れない。
体の異変に気づいていながらも
目の前の仕事をこなすことを優先し、
自分の体調の変化を
見てみぬフリをしていた。
さらに追い討ちをかけるように、
仕事では接待が続いていた。
どんなに体調が悪くても、
大事な接待には顔を出さなければいけない。
お酒を飲むことは免れたとしても、
会食では食べたくもない料理を
食べなければならない。
大事な接待の途中で
あまりにも具合が悪くなって
トイレに駆け込んで
吐いてしまったこともあった。
トイレで泣きながら
「もう無理…たすけて…」
と叫ばずにはいられなかった。
こんなに体調が悪い時でも
仕事を優先にしていることが
苦しくて悲しくて…。
そしてついに体が悲鳴をあげた。
極度の睡眠不足と胃痛で
まともな食事ができない日が
続いていた時だった。
朝いつものように会社に行こうとしたら、
「あれ…?起き上がれない…」
「うそ…うそでしょ…?」
体に力が入らないし
胃が強烈に痛む。
ここにきてはじめて
会社を休んで病院に行った。
医者から告げられてた病名は
『胃潰瘍』たった。
そして二言目には、
もっと前から吐き気などの症状が
あったはずなのに、
なぜ今まで治療もせずに
放置していたのか?
と言われた。
本当は受診したかった。
でも忙しすぎて受診する時間がなかったのと、
体調が悪いことが原因で
仕事に穴を開けたくなかった。
その日から本格的に
治療がはじまった。
医者からは、
なるべく働く環境を変えること
お酒は飲まないこと
可能であれば一時的に仕事を休むこと
と言われた。
度重なる接待や飲み会ばかりで
飲みたくもないお酒を飲んでいたことが
原因かもしれない。
でもそれ以上に、
数字へのプレッシャーや
無理難題な数字を突きつける上司へのストレス、
いつも笑顔で「はい、頑張ります!」
と言い続けたことが
精神的に追い詰められたのだった。
31歳の時
治療に専念するために
第一線で活躍する営業部から
異動することになり、
部下たちはそれぞれ別のチームに
配属されることになった。
新しく配属される
チームのリーダーたちに
引き継ぎの資料を
作成していた時のことだった。
入社したての頃は
弱音を吐いてばかりだった部下が、
今じゃ後輩たちの面倒を率先して
見てくれるようになったことを
思い出した。
「もうアポなんて取れません!」
「やっぱり自分には営業は
向いていないと思います。」
と言っていた部下が、
気づけば誰よりもアポを取ってくる
たくましい営業マンになっていた。
そうやって部下1人1人の
成長してきた過程や、
できるようになったこと
頑張ってきたことを
思い出していくうちに
涙が溢れた。
「もう彼らの成長を
間近で見ることはできないのか…」
チームのみんなには
今まで私についてきてくれた
感謝の気持ちと
部署を離れることになり
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
部署を移動する最後の日に、
「いつかまた、一緒にお仕事がしたいです!」
と泣きながら手紙とハンカチを
プレゼントしてくれた部下。
もらった手紙からは
そんな思いが伝わってきて
嬉しさと悔しさともどかしさと
いろんな感情が
一気に込み上げてきた。
当時付き合っていた彼氏(のちの夫)も
誰よりも私のことを支えてくれていた。
本来なら、
「そんなに仕事がキツイなら辞めてしまえ!」
と言われてもおかしくない状態だった。
でも、彼(夫)は何も言わずに
そっと私を見守ってくれていた。
部下、彼氏、そして両親も。
私はたくさんの人に支えられていたんだなと。
感謝の気持ちでいっぱいになった。
私は会社員としても母親としても価値のない人間なのか
ちょうどこの頃結婚が決まった。
部署を移動してからは
日付が変わるまで仕事をすることも
土日に出勤することもなくなった。
激務から離れたことで
体調は順調に回復していった。
でもそれは、
会社からの期待に応えるために
必死で働いてきた私にとって
すべてを失ったのと同じだった。
仕事のやりがいも
会社からの期待も
上司や部下から頼られることも
なにもかも。
会社からは【価値のない人間】と
言われているような気がした。
もちろんお給料も大幅に下がった。
それでもなんとか
新しい部署でもチームを任されることになった。
以前のようなお給料はもらえなくなったけど、
上司や部下からも頼りにされ
誰かの役に立てている
会社に貢献できていると
自分が会社で働く意味を
感じられていた。
ところが子どもを産んで
いざ職場復帰すると
働く環境は一気に激変した。
まず子どもを保育園に預けて
働くようになったので、
今までのようなペースでは
働けなくなった。
どんなに周りが忙しそうにしていても
保育園のお迎えの時間になれば、
「すいません!お先に失礼します!」
と上司に頭を下げて自分の仕事を
誰かにお願いしダッシュでお迎えに行く。
いつしか私は、
「お迎えがあるから早く帰らなきゃいけない人」
「子どもの熱でよく会社を休む人」
という位置付けになり
気まずい思いを抱えながら
働くようになった。
そんな毎日を繰り返しているうちに、
「私がいる意味ってあるのかな…」
「私は誰かの役に立てているんだろうか…」
と思うようになった。
そこからは
お迎えの時間ギリギリまで働いた。
でも出来ることなら
生まれたばかりの息子の元へ
少しでも早くお迎えに行ってあげたかった。
お迎えはいつも決まって息子が最後。
お友達がみんな帰ってしまった後、
保育園で1人ぽつんとママのお迎えを
待ってる息子には罪悪感でいっぱいだった。
「寂しい思いをさせてごめんね…」
保育園からの帰り道に
息子を自転車の後ろに乗せて
泣きながら帰ったこともあった。
家に帰ってからは
ご飯作ってお風呂入れて寝かしつけ。
もちろん子どもと遊んだりする時間も
十分には取れない。
家事、育児を終えてふと時計を見ると
23時を回っていることもあった。
そしてあっという間に1日が終わる。
子どもの寝顔を見ながら
「私はなんてひどい母親なんだ」
と涙したこともあった。
仕事も子育ても何もかもが中途半端。
私は会社員としても
母親としても
誰の役にも立てていないんじゃないかと
思うようになった。
起業との出会い。価値観の崩壊。
そんな中、
第二子の妊娠がわかった。
家族との時間も大切にしたい
自分の時間も大切にしたい
やりがいのある仕事がしたい
だけど仕事をセーブして
収入は下がってしまうのは不安…
時間
お金
やりがい
どうにかして
この3つを叶える方法はないのかと、
「会社員 副業 バレない」
「副業 在宅」
などのキーワードで調べ始めた。
そこで見つけたのが
インターネット上に
自分が働かなくても収入が入ってくる
仕組みを作るというものだった。
自宅で子育てしながら
家事育児の合間に月200万円を
稼いでいるというごくごく普通の主婦や、
営業職として激務をこなしながらも
シレっと月100万円を稼いでる会社員が
いることも分かった。
「…めちゃくちゃ怪しい。」
怪しすぎてこの日は
一旦調べるのをやめてしまった。
でもどうしても
彼らのことが気になって
その日はなかなか眠れなかった。
「怪しい…怪しすぎる…」
でも・・・
もし彼らの言っていることが
本当だったとしたら?
パソコン1台で自宅で働けるなら
子育てしながらだって出来るし
会社を辞めずに副業でできる。
このままあと30年間
家族との時間を犠牲にして
子どもに罪悪感を感じながら生きるのか
その可能性にかけて
チャレンジしてみるのか。
答えは明確だった。
別に会社を辞めるわけじゃないし
本気で人生変えたいならやるしかない!
と決意し、
勇気を出してネットビジネスの世界に
飛び込んでみることにした。
さいごにどうしても伝えたいこと
いかがでしたか?
3度も受験に落ちる
↓
落ちこぼれだった学生時代
↓
就職で憧れの営業職へ
↓
年収1100万になるも残業80時間
家は帰って寝るだけの場所
↓
胃潰瘍でベットから動けなくなる
↓
お金だけあっても体を壊したり
自由な時間がなければ
幸せではないと気づく
↓
誰からも必要とされていない部署へ移動
↓
自分の存在意義を失う
↓
出産
↓
やりがいもない
自由な時間もない
誰からも必要とされていない
↓
子供のお迎えのため
肩身の狭い思いをしながら働く
↓
時間もお金もやりがいもある
働き方はないのかと探し始める
↓
自宅で副業スタート
とまぁなかなかな人生を
送ってきました。
最初はとにかく稼ぎたい!
自由な時間を手に入れたい!
そんな理由から
ビジネスを始めました。
でも私の中で
少しずつその考え方が
変化していきました。
ビジネスを始めていくうちに
本当の幸せってなんなんだろうって
考えるようになったんです。
で、いろんな人と関わっていく中で
本当の幸せというのは、
人から必要とされたり
人に幸せを与えることで
自分が満たされること
なんじゃないかなって思ったのです。
それを1番に感じられたのは、
読者さんから
「心からのありがとう」を
言われた時でした。
私の発信を見て人生が変わった
ビジネスを始めて本当に良かった
という人に出会うことができたのです。
「はっぴーさんのおかげで人生が変わりました!」
「はっぴーさんに救われました!ビジネスを始めて本当に良かったでです。」
こういったお手紙やメールをいただくことが
嬉しくて嬉しくて。
そのたびにこころが満たされて
あたたかい気持ちでいっぱいになって
何度も涙がこぼれました。
お金を稼ぎたいだけなら
ビジネスはやっていなかったと思います。
お金を稼いだ先に
自分がどうなりたいか。
ここだと思うのです。
子供の成長はあっという間です。
3歳の息子が満面の笑みで
「ママ〜!!」
と駆け寄ってきてくれるのは
あと何年なんだろう?
おむつを替えてあげると
くしゃくしゃな顔で笑う娘を見れるのは
あと何ヶ月なんだろう?
子どもの成長の過程を
そばで見守ってあげたい。
子供がやりたいと思うことは
何でも挑戦させてあげたい。
時間がないから
お金がないから
疲れているから
という理由で子どもと過ごす時間や
人生の選択肢を狭めることだけは
したくないと思っています。
おそらく世の中の多くの人は
家族と幸せな時間を過ごしたい
と思っていると思うんですよね。
それなのにみんな
会社のために
他人のために
自分の大切な時間を割いて働いています。
本当は家族と幸せな時間を
過ごしたいはずなのに・・・
いつしか生活のためだけに
夜遅くまで働いて
本当は旦那さんのことが大好きで
結婚したはずなのに
時間的にも経済的にも余裕がなくなって
どうでもいいことで喧嘩して・・・
お金のことで
大好きな人と揉めるなんて
そんなの悲しすぎます。
だからもしそれがお金で解決できるなら
その稼ぎ方を教えてあげたい。
綺麗事のように聞こえるかも
しれませんが、
日々仕事と子育てに
葛藤しながら働くママの助けになりたい。
私は本気でそう思っています。
私はビジネスを始めて
人生が変わりました。
お金だけではなくて
お金では絶対に手に入らない
かけがえのないものにも
出会うことができました。
自分には価値がない
自分は必要とされていない
と思っていた私が
今は誰かの人生を変えられる力を持っている。
その瞬間に携えられていることが
何よりも私の自信とやりがいに
つながっているのです。
私がこうして発信をしているのは、
《ママになってもいくつになっても
好きなことやりたいことに挑戦して
輝き続ける人を増やしたい》
という思いがあるからです。
仕事に追われて
・自分のやりたいことは何1つできずに
定年退職を迎えてしまった
・気づいたら親孝行できなかった
・毎日疲れきっておしゃれもできずに
年を取ってしまった
・ずっとお金に不安があるから
やりたいことに挑戦できなかった
って後悔しないように。
おそらく
ここまで私のブログを読んでいただいた
ということは、
本気で人生を変えたいと
思っているのではないでしょうか?
毎日が楽しくて
自由な時間とお金があって
充実していて
何の不満も悩みもないという方は
きっとここまで読んでいないはずです。
もしあなたが
私の理念や価値観に
共感していただけたなら
ぜひ私のメルマガを
読んでみてください。
私はブログよりも
1人1人にしっかりと届けることが出来る
メルマガが大好きです。
メルマガ読者さんに役立つ情報を届けたい。
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そんな思いで日々メルマガを運営しています。
「目の前に流れてきたチャンスを掴めるかで
人生の命運を分ける」
これは私が憧れている起業家さんが
言っていた言葉です。
事実、たった1通のメールが
私の人生を変えました。
もしあなたも本気で人生を変えたい!
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私はほんの数ヶ月前までは
仕事、家事、育児に追われる日々を
送っていました。
・家族と過ごす時間もない
・自分の時間もない
・やりたいことにも挑戦できない
かと言って、
仕事を辞めたりセーブして働くのは
収入が減ってしまうから不安…
何かいい方法はないのかと
探していたところ
働く時間を増やさずに収入を得る方法
にたどりつきました。
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